小島 久弥 展
みもかも文化の森 美濃加茂市民ミュージアム
2007年9月15日[土]-10月21日[日]
素材:映像、模型の車、模型のレール、車、街路灯、ライブスチームのレールナイロンパイル、「にしみまど」の模型、ニードルパンチカーペット、造花、砲弾、電球など
Cooperation:Eto Rika, Vamos Crew Co.,Ltd.
高橋 綾子 名古屋芸術大学美術学部准教授
名古屋芸術大学美術学部准教授
結果的にではなく、意識的に「折り返す」こと。いや、そもそも「折り返す」ことは、意識なくしてはできないことか。美濃加茂市民ミュージアムにおける小島久弥展に添えられた「Critical Piont 50≒0」というタイトルを見て、なるほど……と笑みがこぼれた。「よーし、50歳になってボクはまた出発点に立てるぞ!」と、いたずらっ子のようにワクワクしている小島さんが目に浮かんだ
高橋 綾子 名古屋芸術大学美術学部准教授
結果的にではなく、意識的に「折り返す」こと。いや、そもそも「折り返す」ことは、意識なくしてはできないことか。美濃加茂市民ミュージアムにおける小島久弥展に添えられた「Critical Piont 50≒0」というタイトルを見て、なるほど……と笑みがこぼれた。「よーし、50歳になってボクはまた出発点に立てるぞ!」と、いたずらっ子のようにワクワクしている小島さんが目に浮かんだ。
1990年代から、クリティカル・ポイント(臨界点)と称したシリーズで、物質が変化する瞬間や現実と虚構、生と死などの概念の際や隙間が、一貫して主題とされた。決して多作ではないが、一回一回の制作をこだわり抜いてきた実績は、いま確かな説得力をもってきた。そうした小島さんが50歳を記念して旧作による回顧展を行うはずはない。この美濃加茂の展観は、新作によって自らを総括することで、その「折り返し地点」を顕在させる内容となった。
「美濃加茂彫刻シンポジウム’97」によって太郎洞池のほとりに設置された作品「にしみまど」。この作品の存在は、美濃加茂市民であっても、それほど広くは知られてはいなかったのではないだろうか。ましてや、小島久弥という作家が一貫して追求する制作の野外彫刻バージョンであるということも。彼はどん欲な自然の観察者であり、自然界の臨界点と人間の想念を交差する場として、「美術」という枠組みを選択しているのではないか。しかし、10年前に制作された彫刻のコンセプト、つまり真西に向かい自然と対峙することの意味は、どこか「問い」のまま宙づりになっていたようにも思えた。少なくとも10年前の私には、80〜90年代に全国の地方自治体で盛んだった野外彫刻設置事業のなかの一つという認識が先にたち、正直なところ、装置としての構造とそのデザイン性のほうに気をとられていた。
作家は、同じことを繰り返しているようでいて、常に今を乗り越えて進む。あるいはゼロに帰して再構築をはかるのもまた作家自身である。小島さんは、かつて「にしみまど」で鑑賞者にみつめて欲しかったことを、もう一度50歳なった今、インスタレーション、映像、ワークショップと欲張りなほどの趣向をこらして編集、提示してくれた。
特に象徴的だったのは、切れかけの電灯だ。チカチカ点滅する蛍光灯は、「いのち」の断末魔を想起させるのか、私は幼子のように不安になった。それは優れた芸術表現の虚実の際で、感動と不安の入り交じる体験に近い。自分が居る時空がどこなのか…電灯のもとに佇む愛車チャーリーを覗き込んで、あっ…と合点がいった。そうか、真西をみつめて対峙すべきは、今という現実感と、その拠り所がはたして自分自身にあるかという問いだ。
秋分の日、小型カメラを搭載した模型列車が、線路にのって「にしみまど」の中を通り池に向かっていった。ビデオ中継された列車からの視線(映像)は、私のからだの一部となり、さらに眼だけが遊離していくような不思議な感じがした。私の眼を乗せて、列車は中空をきる…その時、私は限りなくゼロになれた。