はやしいづみ・岐阜県現代陶芸美術館学芸員
人類はそれが誕生したときからずっと、地球上の物質を用いて、その恩恵に与って生き延びてきた。けれども近代化と工業化、様々な技術革新を経て、高度に発展した社会の中に生きる現代の私たちが、その繋がりを直接的に感じ考える機会はますます減りつつある。
そのようななかで窯業は、人類が地球がもたらす素材を活用してきた/いることを色濃く伝え、感じることのできる技術(ars)である。文字通り地球上にある資源である土と水を使って形を作り、炎を使ってその形を留める。石器に次ぐ人類最古の道具である土器が発明された時期は、たとえば日本においては、人類の定住が始まった時期と重なる。土器が可能とした食物の煮炊きは、人類の生活を安定したものに変えた。話を大きく飛躍させるならば、それは人口の増加、ひいては現代に至る複雑な社会の形成の礎となったと言えるかもしれない。
はやしいづみ・岐阜県現代陶芸美術館学芸員
人類はそれが誕生したときからずっと、地球上の物質を用いて、その恩恵に与って生き延びてきた。けれども近代化と工業化、様々な技術革新を経て、高度に発展した社会の中に生きる現代の私たちが、その繋がりを直接的に感じ考える機会はますます減りつつある。
そのようななかで窯業は、人類が地球がもたらす素材を活用してきた/いることを色濃く伝え、感じることのできる技術(ars)である。文字通り地球上にある資源である土と水を使って形を作り、炎を使ってその形を留める。石器に次ぐ人類最古の道具である土器が発明された時期は、たとえば日本においては、人類の定住が始まった時期と重なる。土器が可能とした食物の煮炊きは、人類の生活を安定したものに変えた。話を大きく飛躍させるならば、それは人口の増加、ひいては現代に至る複雑な社会の形成の礎となったと言えるかもしれない。
岐阜県東濃地域も、窯業によって発展を遂げた地である。1400年以上の陶磁器生産の歴史を抱える陶磁器産地で、現在も産業、そして芸術としてのやきもの作りがさかんに行われている地域だ。2024年、この地の窯業と、その礎となる地域の資源、すべての源となる「土」をテーマに、地域の歴史を色濃く残す複数の場を舞台としたアートプロジェクト「土から生える」が開催された。小島久弥の新作《Current 流れ/現在》の窯場跡に残された作業場である。
多治見市高田地区は、庶民向けの器である山茶碗に始まり、江戸時代には徳利など、時代に応じた生活雑器を作り続けてきた地域である。粘り気があり成形しやすい良質な木節粘土の一種である「青土」が産出するこの地域は、多くの窯が磁器生産に移行した近代以降も、この土の性質を活かした製品を作り続けた。《Current》が “発生”したこの窯場も同様で、残されたものからは、ここがかつて沈子(漁具用の錘)を生産した工場であったこと、その生産が止んだあとも陶芸家たちが制作の場所にしていたことが窺える。今は生い茂る草の中に佇む窯場に足を踏み入れると、かつての在籍者の忙しい仕事ぶりを伝える走り書きのメモや、使いかけの材料が残っていた。やきものを巡る人の活発な活動の気配が残る場所だ。しかし今、そこに人はいない。小島がそこで出会ったのは、蔦である。
さて、currentとは「流れ」あるいは「現在の・今の」といった意味を持つ語である。そのタイトルが示すように、本作品は、時間の流れが組み込まれた、いわば状態の連続のような、静かに動的なものだった。まさに今、移り変わっているものごと、流動するものを言葉で捉えることは難しい。だからまずは、その空間の“流れ”に身を委ねてみよう。
そこにいたのは蔦だった。その出自を辿ると、建屋の奥、東側へと辿り着く(太陽は東から昇る)。蔦は、栄養を求めて〈space〉の壁や床を這っている。どうも蔦の大きな生命体のように見える。その周りに点在する大きさも質感も様々な球体は、それらの根を潤す水分の原子のようにも、はたまた惑星のようにも見える。地上の人間から宇宙、そして再び人体、細胞、核へとスケールを変えて自然界を捉えてみせたチャールズ&レイ・イームズの映像作品「Powers of Ten」が想起される。原子と銀河系、宇宙は相似形を成すのだ。
蔦をさらに追っていく。誰かがかつてここで作業をしていた気配が残る机の上に、また球体が転がっている。視線を上にやれば、これから球となって落ちそうな雫〈drop〉が伝っている。もしかすると、蔦はこの水分を求めてやってきたのだろうか。不在の人をよそに、枯れ気味の蔦が這っていく。水は循環のシンボルである。けれどもこのdropは、枯渇の寸前の、最後の一粒のようでもある。
蔦はどんどんと伸びていく。それは押切の刃の上を横断していく。〈judge〉の古さびた刃を持ち上げているのは、竿秤のもう片方の皿の上に乗った小さな青い球体、ラピスラズリである。ほんの少しのバランスで転げ落ちてしまいそうな球体。それが無くなってしまったら、あるいはその質量が軽くなってしまったら、刃は蔦に向かって振り落ちる。ここにも再び現れる球体だが、容易に連想されるのは、地球である。地球の重さを支えているものは、何だろう。
そして蔦は、小さな建屋〈current house〉に辿り着く。金属製の箱型は、外からは草に埋もれて見えた、今私たちがいるこの建屋を、1/20サイズで再現したもこの建屋にもかつて、こんな灯りが満ちていたのだろうか。ちょうど1日が始まり、終わるような、心地よいリズムをずっと遠くから眺めているようだ。少し離れてみることで浮かび上がる日常のリズム。何気ないことは、その只中にいては気がつけない。そんなことを想像する。
けれども蔦は建屋にとどまらず、また伸びて、次は小さな山の脇を抜けていく。〈landscape〉の砂山を下ろうとする小さなダンプカーとショベルカーの反対側には、リアルサイズのスコップが刺さっている。まだ1/20スケールの視点で歩む私たちには、そのスコップはまさしくヒューマン・スケールを超えた巨人のものに見える。このスコップのひと掘りで、砂山は跡形も無くなってしまうだろうと想像して恐ろしくなる。しかしそのスコップを握っているのは、誰だろうか。
蔦はさらに伸びて、登りゆく先、西側の壁面には、大きな窓がある(太陽は西へ沈む)。〈window〉の窓いっぱいに見えるのは草花と、先ほど目にした砂山のようである。実際のところ窓に写っているのは、今私たちがいる建屋の外に実在する(このために作られた)小さな庭と、鏡越しの空なのだが、日常的に目にする状況との距離や視点の違いが違和感となって、どこか現実味が遠のくのである。ここまで私たちは蔦の行くさきを辿りながら、この場所に残る数々の痕跡、かつてあった活動の気配にふれてきた。ここでやっと私たちは現在に、現実に、戻ってきたというのに、それは先ほど、この建屋に入ってくる前とは異なる現れ方をしているのである。
小島久弥はこれまで、多様な表現手法によって、「クリティカル・ポイント(=臨界点)」を探求してきた。クリティカル・ポイントとは、物理で言えば気体と液体の相境界がなくなる点、つまり両者の区別がなくなる境目のことである。小島はこの概念を、現実と虚構、生と死といった、相反してみえる概念や事物が交錯する地点という、複層的な意味合いの中に、追求してきた。
現実と虚構が重なる点はどこにあるのか。小島の作品は、いつも精緻な表現で思索を誘う。いつも通りに世界を眺めていては見過ごしてしまうその一瞬の点を見つけるには、「当たり前」という前提をずらしてみる必要がある。そこで小島が持ち込むのが、自身が「スケール・トリップ」と呼ぶ手法である。scale(=ものさし、縮尺、比率)trip(=旅)、それは文字通り尺度の感覚を超えていく旅である。実在する事物のサイズをがらりと変えてみせる、あるいはその対象との距離を大胆に縮めたり広げたりしてみる。このようにスケールを飛躍させ、その間を行き来させることで、作家は、見慣れたものに潜む不思議、それぞれ遠くにあると思われた別々の事物を結ぶ点の存在を示唆する。それはちょうど旅を経て帰ったとき、いつも暮らすまちが少し違って見えるような感覚である。本作でも、〈space〉の球体が内包する原子と惑星のダブル・イメージ、〈judge〉におけるラピスラズリと地球、〈current house〉のスケールダウンされた建屋や、〈landscape〉のショベルカーとダンプカー、さらには〈window〉に映る山など、物理的なスケールの飛躍が幾重にも隠されている。あるいは、ソリッドな建屋と、すぐにでも形を崩しそうな砂山に、そしてまた、それぞれの場に添えられた言葉も、想像のための空間を優しく押し広げていく。作家が仕掛けるスケール・トリップは、私たちに鳥の眼や虫の眼、ときに星の眼を与えてくれる。すると、たとえば蔦を断ち切ろうとする刃は世界各地で進む環境破壊の恐ろしさとして、あるいは不安定な秤に乗る小さな球体は頻発する異常気象が示すバランスを崩しつつある地球の現状として、私たちに肉薄する、体感できる危機として立ち現れるのだ。
しかし《Current》における最大のスケール・トリップは、作品の主人公を、人間以外の生物に受け渡したところではないか。小島自身も「そこに生えている蔦を見つけたとき、作品はほとんど完成していると思った」と語るように、本作品を物理的にも思想的にも貫いていたのは、建屋に生えていた蔦であった。実際にこの作品を辿るとき、私たちは自然と蔦の視点と動きを追っている。小島は直感的に、この蔦の動きを作品の中心的な存在として定めていた。しかし現実は、例年のように更新される記録的な酷暑の中、蔦を生き存えさせるためには、大変な苦労があったという。手をかけても枯れる葉があれば、知らぬ間に芽吹くものもある。蔦の伸びる先も、その生命の時間も、自分の意思では操作することはできない、どうしようもなくままならないものだ。結果、本作の制作は、まさしく“なまもの”である相手の動きを見ながら、アイデアを繋げ、展開させていく、対話的なものであったという。アンコントローラブルな存在を中心にした制作は、これまでの小島作品に見られた、徹底的な観察と計算による精緻な作り込みを、時に難しくしただろう。しかしそれでも小島は、「本当に土から生えているもの、生きているものと付き合えて良かった」と言う。
そういった意味で、《Current》に通底しているのは、蔦、つまり人間以外の生き物のタイムスケールである。工場としての役目を終えた建屋は、人間が一度放棄した場所だ。やきもの産地の歴史を踏まえると、その現状は閑散と物悲しいものに見えるかもしれない。しかし同じ場所で、蔦は生を廻らせていた。建屋に色濃く残る人間の活動の痕跡は、蔦と人間の時間の流れの違いを際立たせるが、それは時に交差する。私たちは、作品全体を貫く蔦に視点を寄せることで、人間以外のスケールがあることに思い至るのである。このことに気付くと、作家が繰り返し配置した球体や、周期的に点いては消える光から連想されるリズムが、地球の時間、さらには宇宙の時間へと想像を誘っているようにも感じられる。
このようなスケール・トリップを経ると、〈judge〉の竿秤とラピスラズリ(地球)のバランスや、〈landscape〉の大きなシャベルと小さな砂山は、今、まさに進行している環境危機に対する切実な警鐘となって迫ってくる。この問題に向き合うには、人間以外の視点、ものさしを想像する必要があるのではないか?作家はこの小さくも壮大な旅を通じて、私たちの想像力に問いかける。
小島が最初に現場を見た時に描いた本作の構想スケッチには、「Don,t step on the Ivy! (ツタを踏むな!)」とメッセージが書き添えられている。そして実際、作業中の現場入口にもこのスローガンが掲げられていた。この言葉は、フランスの庭師・修景家であるジル・クレマンの庭づくりにおける哲学である「できるだけあわせて、なるべく逆らわない」という態度を想起させる。蔦を踏まずに生かすこと、それがあるがままに伸びるよう手を貸すこと。《Current》における小島の実践は、クレマンの庭づくり、その「動いている庭」が示す自然と人間、自然と文明の共存の方法とも響き合う。そしてクレマンは、有限である地球、人間の活動が行き渡り、様々な生物種の混淆が進む地球を、「惑星という庭」とみなした。惑星と庭、これもまた、スケール・トリップではないだろうか。クレマンは惑星の庭を、「思考と行為の複数性の場」と表明し、その庭へ人を誘う。「たった一度の旅でも、そこで見た風景の均衡をとらえてしまうこと。風景に隠されたさまざまな扉から庭にいたること。その扉は、風景の見方が引き裂かれてしまうことをも恐れない人々のためにだけ開かれている※」
蔦の時間、人間の時間、地球の時間。複数の時間の流れが重なりあう《Current》の場は、クレマンの庭同様に、単眼的な人間中心主義の再考を促す。ただ人間が生き残るための環境を確保するためだけでなく、人間以外のあらゆる生命、ひいては無機物までもが育まれる場として、地球が持続する道を考えるために。土から生えた蔦は、土をつくり出した地球の時間の存在を、今・ここに知らせている。
※ジル・クレマン著、山内朋樹訳(2015)「動いている庭:谷の庭から惑星という庭へ」みすず書房
landscape | 採土場 土はかたちを変え
window | 窓から やがて虚空へ