移動定点観測 / 1999.01.25~2005.09.21 /チャーリーの後部座席に固定したカメラで、100km毎に撮影。
走行メーターが10万kmになったときに始めた。





1987年のチャーリーと小島久弥(左)・2003年のチャーリーと小島久弥(右) 同じスタジオで、同アングル、同ライティングで撮られた2枚の写真。

 

Special thanks to Hiroshi Abe & Muneyoshi Yoshida Studio MORE Co.,Ltd.





積景 / 冷たく、しかしどこか温かさを感じさせる雪。雪景色。それはすべてを包み込んでしまう恐ろしさと、慈し み深さ、かなしく優しい美しさが同居した臨界的な風景だ。




 

積景 2005
素材:鉄、ナイロンパイル
サイズ:800×350×25mm

 

せなかあわせ(左)/
男“a man is thinking about ...”と女“a woman is catching a light”を雪景に配置。人は誰も、永遠に逢うことのできない、まちあわせのただ中にいるのかもしれない。

バイバイチャーリー(右)/
“チャーリーホワイト”が、池に沈み雪に埋もれている。 夢で見た風景をパイル加工し、一面の雪景を表した。





ガーキチハ、アヒルデアル / 学生時代に使っていた絵具箱に、少年時代に飼っていたアヒル“ガーキチ”の最期の記憶を詰め込んだ。沢山の色の絵の具を収納するための箱に、真っ白な世界。銅版には“ガーキチ”に関するテキストと、ガーキチの羽根を配し、アヒルと池はパイル加工し、雪景を表した。

 

積もる刻 48 years old(制作中) / 数十年来、自らバリカンで整髪している、その髪をガラス瓶に入れる。やがて、白く変わってゆきながら、 切られた髪は積もり続ける。この作品が完成する時、それは即ちボクが死ぬ時である。

 





「終点のない旅」

車での旅は、雑多な日常を引きずっているし
帰ってくることを前提としている
できれば、旅は電車で出たい
電車は一方通行、行きと帰りの列車は違うのだ
銀河まで行かなくても、臨界点はすぐそこにある
レールと車輪の奏でる音で眠りに入るように
気が付けばもう初めて見る世界
迷子になって身を任せて、進むがいい
クリティカルトレインの出発だ

小島さんの術中にはまって、何故この映像に見入ってしまうのだろう。Nゲージの模型電車の先頭にカメラ を付けて、床下に作られたコースを走らせるという話を聞いただけでわくわくしたが、実際に映像を観て、 小島さんの作ったジオラマがストーリーのない物語となり私の何かを強く揺さぶった。人の一生も全て偶然 に包まれたもので、ストーリー性はない。あそこで右に行ったか左に行ったかで、大きく人生が変わること もあるし、大体起承転結を考えて人生を送っている人はいないだろう。偶然を生かせる努力を普段している かどうかで、先は決まっていくと先人に教えられた。

死に際に自分の人生が走馬燈のように早回しの映像で見えると臨死体験をした人は言う。この映像もかつて何処かで見たような断面の集積にも思えるし、これから見るデジャヴかもしれない。一つ言えるのは、お母さんの胎内にいるかのような守られた世界から覗いた映像に見えることだ。これは小島さんの柔らかい社会性のせいだろうか。

繰り返し観て、始まりはあっても終点がないと感じるのは何故なのか。クリアーでない画像と手作り感のあ るジオラマが、白黒写真のように想像力を誘発するからか。観るたびに発見がある。30分良い夢を見させて 貰った
                             

安藤 雅信 百草

 




「降り積もる記憶」

ギャルリ百草の茶室で、不思議な映像を見させてもらった。小型カメラを載せた模型列車が床下を走って撮影してきた映像なのだが、その床下は自分が座っている畳のすぐ下なのである。茶室の壁に上映された映像を眺めながらも、意識は床下へと導かれ、いつの間にか自分が床下に引き込まれていくような気分になった。

観客が実際に見るのは映像だけだが、それは作品の一部にすぎず、したがって映像作品とは呼びづらい。観 客を体感的に作品世界に引き入れる装置的インスタレーション作品、とでも呼ぶべきだろうか。現代美術作 家である小島久弥さんが仕掛ける「臨界点」の荒技であり、この作品では畳一枚が臨界点となって、床上の 現実世界と床下世界が拮抗し、あるいは交差する磁場を生み出していた。しかも臨界点は幾重にも仕掛けら れていて、床下も現実と虚構が交差する場にしつらえてあり、彼が見たという夢を具現化した光景が広が る。列車は光と闇が複雑に入り組んだ床下世界を走り、万華鏡のトンネルをくぐり、雪景を通り、無人の街 を走り抜けていく。床下の夢世界、しかし夢はどこかでその人の記憶と響き合うものだ。ある意味で人生は 記憶の集積でしかなく、そうした記憶が臨界点をこえて雪となり、静かに降り積もって、まぼろしの光景に 変転したのが小島ワールドなのかもしれない。懐かしい匂いがするし、儚さ、侘しさを漂わせながら人の心 をうつ。

映像を見終わっても列車の旅は終わらず、映像を見た自分の心のなかに続いていった。そして、ほろ苦い余 韻を残して心のなかに消えていく。優れた小説や映画な どを見て、自分の人生を深く考えたという人は多い が、現代美術にそうした感想をもらす人は少ない。現代美術のあり方についても考えさせる作品だと思うの である。                          

三頭 谷 鷹史 美術評論家