個展
 特定非営利活動法人CAS
 キュレーション : 天野一夫(美術評論家)
 2018年2月17日[土]- 3月10日[土]
 素材 : プロジェクター、カメラ、日用品、アルミ複合板、スノードームなど
 Cooperation : Eto Rika


3/15号にレビューが公開されました。以下アドレスです。
http://artscape.jp/report/review/10143975_1735.html ⇨






  

自作のスノードーム 奥から、原爆ドーム(広島)、大浦天主堂(長崎)

 

1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州で行われた人類初の核実験の写真


サンプル1 ⇨

 

サンプル2 ⇨






現代の関西で、だれか小島久弥を知っているだろうか?このあわただしい流行のみを追う美術界を信用していないが、といっても小島は既に充分なキャリアある作家であり、現在は生まれ育った中部圏を拠点に発表を続けている。責任の一端は作家にもある。縁あって愛知に来た私は、中部圏以外に発表することがほとんど無い実力ある作家が多いことに驚いた。ただし、小島は神戸のシティ・ギャラリーでも1988年の個展以来、95年までグループ展に参加してきている。関西での個展としては30年ぶりとなる。 ここでは、すでに展示を見ている人のために書きたい。見ていない人は遠慮してほしい。 今回の個展におけるメインの新作「Critical Point お化けの正体」は、1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州で行われた人類初の核実験の成功、いわゆるトリニティ実験の際に撮られたある写真から来ているという。その爆発直後に膨張した半球状の火の玉は大きさの感覚を無効にさせ、不可解で妖しい美しさを放っている一瞬の光景である。その翌月、人類最初の悲惨な光の下に広島と長崎の人々は居た。 そしてその後、その見えない光とともに我々は生きている。 小島はこの画像が捉えた半円形の球形に、180度異なるスノードームを連想したという。あの観光土産としてのミニチュアの都市、シンボル的建造物が液体の内部に閉じ込められたものである。考えてみれば隔壁状に閉じ込められ何かがその内部に浮遊し装飾している様はブラックユーモアにも思える。 会場を訪れた者はまず、そのスノードームを見る。あろうことか閉じ込められているのは原爆ドームと大浦天主堂である。それから正面の暗がりの方に行く。そこには会場真中の大きなスクリーンらしきものの手前に、消えかかった蛍光灯が不安定な状態で明滅を繰り返している。調整中とおぼしい。その反対側の面に向かうとスクリーンにプロジェクションされていて、微細に収縮拡大を繰り返しながら様々な色に変わっていく光りが中央にある。当然それは蛍光灯の光りと連動しているとかんがえられるが、直接的にその光りを目にしているようには思えない。曜変天目茶碗の眩惑的美か、はたまた熊谷守一の見たあの朝日の姿か、あるいは超新星爆発なのか? その光りを見ていると様々な我々の既知のイメージが手繰り寄せられていくが、結局、生き物のごときものに感じる。その不可知のものの生死? 実はその画像は、我々の居る側からスクリーン正面に空いた穴越しにプロジェクションされた光りをカメラが捉えたものなのだ。しかしそのチカチカした光りを穴の中心に合わすと光りの揺らめきは静かになる。しかしひとたび中心をずらしていくと、一様では無い変化が始まる。無論それは不安定な光りを撮る際にカメラが調整して安定しないことを意味するだろう。フォーカスこそマニュアルだが、自動露出でカメラは光りの状況によって変化し止まない。しかし、そのような単なる光学的な説明では解消しないものがここにはある。初々しい生命のような見えには、美しくもシリアスなものが残るだろう。   よく見れば手前のテーブルには日常品があり、スクリーン面下部にそのものの影が映り都市を作る。中央のスノードーム状の半球の光りの中には、かつてエッフェル塔と凱旋門を重ねて作ったという大阪の象徴が入っている。さらには空に見たてられる部分には星のようなものが見えていることとに気付くだろう。 ポエティックにして悪い冗談のようなイメージ。 意味の無いポエムであろうか?確かに中野重治が「歌」で吐くように、これまでのように抒情的な「赤まんまの花」の歌を歌うべきではないし、また現代への内在的文化批評性がなければアドルノが言うように「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」だろう。その意味ではここではイメージの多重性のウィットと詩的な趣味が嗅ぎ取れる。その分、作品を安定させて毒が薄まっているきらいが無いわけではない。 さらに作品は文字のイラストレーションに堕してはならないだろう。一見すれば分かりやすい詩的イメージ性を持ちながらも、さらには他方で光学的な解説も可能な現象でもある。しかし、何れにしても作品はその先を示しているのではないか。不可解な光りはただの光学的な現象ではなく、我々に生死にかかわる多重の思いを導く。ここでは生まれることと死とがあまりに近いのだ。 別室には小島のもう一つの連作「Thanks mom! 自画自参」シリーズを並べている。作家が描いた幼少期の絵を使いながら、そこから延長して現在の自分が描きくわえるこのシリーズは、過去と現在が自分と言う基軸で接合している。「私」は現在に居るのではなく、接合面に居るとすべきであろうか?あるいは円環構造の行き来。それは新作「Critical Point お化けの正体」にも通底する。接合面に居る、あるいは行き来するのは空間を違えながら観賞している我々であろう。 作家は「Critical Point」、つまり臨界点の名の下に連作を続けてきた。単純に見ても<虚像と現実>つまりは<映像と実体>、あるいは<マクロとミクロ><公と私>と様々なフェーズが読み取れる。その作品では形式は様々に異なるが、ひとしなみにある界面が設定されて、上下の世界、あるいは此方と彼方の関係が生起する。われわれは同時にその全てを見ることは出来ない状態でありながら総覧し得ているという感覚になっていることは、現代に生きるわれわれのメディアを介した感覚でもあろう。 そこに時に作家は、電車や車といったヴィークルに乗ることを我々に誘う。そしてそれが貫流する流れとなって、多様な虚実や此方と彼方を行き来させる。そしてその界面はスクリーンそのものだったりもする。彫刻の内部は不可視の空間である。フォンタナが画面をカットすることで逆に絵画の界面の魅惑と異なる空間も見せた。そして今回のようにスクリーンの後ろには闇か光以外は何もない。そのスクリーンに穴が空けられている。それは現実と映像とが曖昧に接合し合っていて、抜きがたく自立することが出来ない状態をも意味しよう。 多重な意味の重なりの中で、光りは一定のものを表象し誘うことはしない。我々がドームの中の小さな夢想の中に置かれるばかりだ。
美術評論家 天野 一夫





 

白い鳥(White Bird)
1963~2018
素材:クレヨン
サイズ:127×90cm

Series Thanks mom!・自画自参 ⇨